フロイトは、親しいほどお互いのエゴイズムによって相手を傷つけ憎む心理を「山あらしジレンマ」と呼びました。
「ある冬の朝、寒さにこごえた山あらしのカップルが、お互いを暖めあおうと近づいたが、
彼らは近づけば近づくほど自分たちの棘でお互いを傷つけてしまう。
そこで山あらしは、近づいたり離れたりを繰り返したあげく、適当に暖かく、しかもあまりお互いを気付つけないですむ、
ちょうどよい距離を見つけ出した」
このショーペンハウエルの寓話から、フロイトは、夫婦、親子、男女、お互いが親しくなり、
近づき合えば合うほど利害関係も密接になり、
2人のエゴイズム-山あらしの棘-が相手を傷つけ、憎しみ争う感情も強まっていくといいます。
つまり、フロイトはこの山あらしの比喩によって、
心理的な距離がなくなればなくなるほど愛と憎しみの相反する気持ちの葛藤=アンビバレンスがつのる心理に注目しました。
そして、このような山あらしジレンマの対象を失う時、
お互いの間に向いていた憎しみや傷つけ合いは、様々な自責や罪意識の体験を引き起こします。
その第一は悔やみと償いの心理です。
対象と関わりの合った間、どうしてあんなことで争ったのだろう、もっとよくしてあげればよかった、
どうしてあんな仕打ちをしたのかと、自分が相手にとっていた態度や言動を悔やむ心理が起こります。
このような悔やみは、その対象を失い、かつて対象との関わりの中で生じていた対立や争いがなくなり、
対象との悪い関係よりも、よい関係だけが心の中で肥大し、思慕の情が高まる体験の中で起こってきます。
この悔やみのなかで、自分のやったこと、思いやりの欠けていたことを思い出す。
そして今からでも、それをつぐない、埋め合わせをしたいという気持ちが生まれます。
あるいはまた相手との関わりを持っている間は、相手のことを誤解し、あるいはその愛を知ることなくすぎていて、
相手が死んだり、相手と別れてからこのことを知り、深い後悔と思慕の情にかられることも多いのです。
とりわけ生前は争ったり、逆らっていた父母、夫婦、兄弟の愛情を、その死後に気付いて生前の至らなかった自分を悔やみ、
この償いの気持ちがそれまでの悪い息子、娘をよい子に変えたり、
妻の生前は酒飲みで、不品行で妻を困らせていた夫がその死後ににわかに見違えるような真面目人間になり、
亡き妻に変わって子ども達のよい父親になる。
こうした心の変化は、対象喪失がもたらす倫理的な心理作用とみなすこともできるでしょう。
そしてまた男性と女性の愛情関係の場合にも、恋人と別れたのちに蘇るよい思い出は、
しばしば悔やみと償いの気持ちを心に引き起こします。
小此木(1979)は、この悔やみ-償いの心理を「つぐない罪悪感」と呼びました。