教師の話を聴いていて、わかってきたことがありました。
彼らは教師という役割の不安から来るプレッシャーのためにこの講座に参加しており、自分が身を置く苦しい状況から
早く救出してもらえるのではないかという希望を持っているのです。
彼らは、立ち止まって、生徒や自分自身の感情を見つめ、耳を傾け、考えたりすると、
コントロールを失ってしまうのでのはないかと恐れているのです。
そして他者の実際の体験から学ぶよりも、むしろ人間について学ぶことを望み、どうすればよいのかという教示を求めています。
講座のメンバーの発言の中に、たった一つだけ、学ぶこと/教えることの関係性の性質について探求しようとし、
「子どもがこんなふうに振る舞った場合、自分はどうしてこんなにふうに感じるのだろう」と問いかける発言がありました。
この声こそが、ある種の子どもをどう援助するのかを見出せることにつながっていったかもしれません。
しかしその唯一の声は、即座の回答を求め、直面する人間的な体験であるはずの“積み木”を、
操作したりコントロールしたりする何らかの方法を得ようとする他の多くの声にかき消されてしまったようでした。
実際、目の前にいるグループのメンバーをみればみるほど、教室の子どもを(ずっと穏やかな程度ではありますが)
なんとよく反映していることかと思うようになりました。
グループは落ち着きをなくしていました。
退屈そうな人もいれば、遅刻してくる人もいます。講座への参加を辞退したいと言い出す人もいました。
また落書きをしたり、おしゃべりをする人、公然と私に対する怒りを表現する人もいます。
私のことをうっかりと間違って「windy(口先ばかりの)berg先生」と呼んだ人がいたときは、部屋中にクスクス笑いが広がりました。
さすがにこのときは、不平や中断のみならず、あざけりにも耐えねばならない教師として、私に共感する人も
なかにはいました。
そして「先生がどんな気持ちでおられるのかをお察しします。周囲が敵対的だと、私もまるで自分が完全に粉砕されたかのように
感じるのです」と言った人もいました。
私は実際に、前述の話し合いの間に自分が考えていたことを吟味してみたのですが、それをここで再現してみることが、
教師の心の中に掻き立てられるプレッシャーの性質や強さを理解するのに役立つと思われます。
こうした自己観察は、そこに起きているパワフルな力動や、教師にかかるストレスを理解するのに役立つと思われます。
こうしたストレスは、観察される事実について生徒が考え、何かを学ぶことを助けるように努め、
性急な行動に駆られてしまわないようにがんばらなければならないことからくるものなのです。
私が体験した一連の感情の状態を描写してみましょう。
まず感じられたことは、挙げられた質問に即時的な回答を与えるなどして、グループの要求に応えうる何かを
提供しなければならないという、やむにやまれぬプレッシャーでした。
教師たちが抱えている問題(そして私自身が教師グループとの関係で直面している問題)を解決しうる情報や、
はっきりした行動指針を示すようにとせき立てられていると感じていました。
そうしないと事態は混沌となり、グループをコントロールできなくなってしまいそうでした。
あらゆる破壊的な現象に対処できるようにする、そんな包括的な秘策など提供できないことはわかっていました。
しかしその一方では、少なくとも、人間の行動について説明する素晴らしい理論的陳述でもしなければという気持ちに
駆り立てられていたのです。
聴衆からの息もつけぬほどの賞賛や喝采に支えられて、万能感という細いロープの上で
精神的アクロバットとでも言うべき高さにまで乗り上げ、空中ブランコのような行為をすることは、
気持ちの良いものだったかもしれません。
しかし心の中を探索すればするほど、自分が期待されている高さにまで登れないのではないかと、不安になるのでした。
私が知っていることやできることは、そこまで求められていることの足元にも及ばないように思えました。
これまでに読んだ本や、他人の示唆に富んだ講義に思いを馳せ、どうしたら次のセミナーに使えるだろうかと考えるのです。
たとえ今回はまずい演技で何とかお茶を濁すことができたとしても、です。
この時点で私は、自分が求められていることができない、全くの役立たずで、最後までやり通すだけの資質をも力もないのに
講座を受け持つ、そんなペテン師だと考える人に、内心、同意していたのです。
私はこれからのスカイのセミナーを、メンバーの要求に応えられる人に代わってもらえるように、頼むべきではないかと
考え始めていました。
このように、私はまず、グループが求めている理想に近づこうとし、そのあとで自分がまったく不適切だという感情に落ち込み、
ついにはその不快な体験から逃げ出すことを望むという、上昇・下降の螺旋を辿っていたのです。
これらの感情はすべて大変リアルで、不安やパニック、絶望感も伴っていました。
いかに限界があるとはいえ、自分には知識と経験があって、教師のジレンマを理解するうえで役立つ何か、
すなわち行動を観察し、その意味について考えられる。
そういう考えを維持するのは、大変なことでした。
そこには、他者が自分に与える情緒的インパクトを観察し、その関係性を理解して貴重な手がかりにしていくことも含まれていました。
この認識のおかげで、逃亡したい願望やグループの要求に屈せず踏み留まれるようになりました。
そして今ここで起こっている体験を考え、グループと自分の間に何が起こっているのかに関心を向け、
そのために必要な心的スペースを持てるようになりました。
こうして、自分の中に引き起こされた感情と、グループの両方を観察することが、探索の焦点になっていったのです。
それでもやはり私は見知らぬ土地を旅し、迷子になったような当惑を感じてはいましたが、
少なくとも自分を方向付けていくために、多少の装備がある状態にはなっていました。
次第に、状況に意味が明らかになってきました。
私は、教師が仕事中に味わう苦痛のいくらかを味わわされることになっているのでした。
彼らの行動、話し方や振る舞い、不可解で脅すような場の雰囲気は、私へのコミュニケーションであり、
それらは次のようなことを私に教えてくれました。
すなわち学習にはつきものの不確かさや、欲求不満に直面した時に、要求がましく、辛抱できず、攻撃的になる生徒の集団を前にし、
自分の知識や考える能力を保つことが、どれだけ困難なことか。
批判やあざけりに直面すると、どれほど傷つくのか。退屈や拒否に会うと、どれほど意気消沈させられるのか。
また混乱や暴力に脅かされると、どれほど恐ろしいことか。こうしたことが伝わってきたのでした。
もし教師が生徒の期待に沿わなければ、こうした隠れた圧力(批判、あざけり、退屈、拒否、混乱や暴力)を、
噴出させることになるかもしれません。
こうした方法で、教師グループは「これがわれわれが日々耐えねばならないことなのです。さあ、あなたが難しいクラスに
どう対処するか見てみましょう」と言っていたのです。
私はこれが意図的に、あるいは彼らが意識的に決めた結果、そうしていたと言いたいのではありません。
それは彼らの体験の結果として、現在抱えている苦痛な状況を、私との(転移)関係の中で再現していたということに過ぎません。
このように苦痛に満ちた感情は、もっとも直接的でとても効果的なやり方で伝えられていたのです。
私が絶望に陥ったり、仕事から逃げ出したり、あるいは厳格な教授法を採用したりグループをコントロールすることで
反応するのではなく、
その不安に耐え、考え続けることができるのかどうか。
こうしたことについて私の力量を試すテストだったのです。
自分が教師として扱わねばならない事柄をこうした形で私に示すとともに、この講座で学ぶという状況の中で、
彼ら自身がいま・ここで味わっている大変さを表明していたのです。
このようにして、私たちは学ぶ者に押し寄せるさまざまな不安の性質について知る機会を与えられました。
それは、分類されていない体験の“積み木”を前にした混乱や混沌といった恐れ、知らないことと向き合う心細さ、
自分が不適切なのではないかという恐れ、他人と比べて馬鹿だと評されるのではないかという恐れなのでした。
同時にわかることは、この不安のために、学習者がいかに即効的な解決方法をもらうことや、
教師に回答を要求することへと駆り立てられるかということです。
そうすることで、さまざまな不安に終止符を打てるからです。
たとえ単純な回答がもらえる時でも、それを当てにしていると、好奇心をもったり試行錯誤したり、探求したり、
データについて考えたりする機会を失わせてしまいかねません。
また学習者が体験する苦痛が耐え難いと、それが教師の中に投げ入れられるのも見てきました。
受け取った教師は、不適切で、不安で、愚かで、心細く、混乱していると感じてしまいます。
そして生徒の代わりに教師の方が、そこから何としても逃れようとするかもしれません。
無知に対する恐れには、めまいがするほどの理論的知識を並べ立てる。無能さを感じることには、力を誇示する。
カオスへの恐れには、担当教科へ厳密にアプローチし生徒を厳格に管理する。
そして不適切や屈辱を感じることには、自分の優位性を示し、教師は生徒に自分がちっぽけだと思わせる。
こんなふうにこうした気持ちに立ち向かうかもしれません。
もし、教師が自分の中に生じる強力な感情のために、生徒がストレスから逃れるのを助けたり、生徒の中に不安を押し戻したりして
反応すると、悪循環が出来上がってしまいます。
これは、精神的苦痛に対する手っ取り早い解決法ではあります。
しかしその解決法は、学ぶことに付いてまわる不安を回避しようとするものです。
そういう教師は実際には、生徒に考える力が育つのを邪魔しているといえます。
五感が集めたデータ全てを取り入れ、そこに何らかの意味あるパターンが浮かび上がってくるまで、じっくりと探索し、
わからない状態に持ち堪えたときのみに、真の学びや発見が起こり得るものなのです。
詩人のジョン・キーツは、「事実と原因に請求に達しようとすることなく、不確かさや疑問」に耐えうる能力について述べ、
「負の能力」と呼びました。
他者を理解しようとするなら、私たちは知らないという状態から始めなければなりません。
観察し、耳を傾け、言語によれ非言語によれ、他者からもたらされるコミュニケーションを受け止める。
そこから何かを発見するということへの興味から始める必要があるのです。
それが児童の発達や養育についてであれ、人間行動学の理論であれ、私たちは先入観から脱却するように努力し、
個人についての風聞は無視するように努めねばなりません。
生まれもった性格の悪さとか、悪い環境という観点から生徒の行動を説明して、
自分の側の不確かさをやりくりしないことが肝心です。
先入観は、自分自身の体験から実際に発見した事柄を、見えなくしたり、聞こえなくしたりさせがちです。
受容的で、心を開いていると、自分にかなり強力な感情が向けられていて(投影)、
自分が受け手になっていることに気づくでしょう。
また自分の中に呼び起こされる感情は、どんな性質なのか。
それがその場の関係性について、どんなことを物語っているのか。
こうしたことに興味を持つようになっている自分に、気づくかもしれません。
引用文献
イスカ ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ (著), E. オズボーン (著), G. ウィリアム (著), 平井 正三 (翻訳), 鈴木 誠 (翻訳), & 1 その他(2008)