絶対的依存と相対的依存
精神分析では、「依存」というテーマは非常に大きなテーマですが、
人間における依存というものが語られるときには必ずウィニコットという英国の精神分析学者の名前が登場します。
ウィニコットは小児科医でもあり、精神分析の中で母子関係、つまり母親の子どもに対するかかわりというものを
もっとも系統的に明らかにした人です。
彼はまず、依存を二種類に分けて、「絶対的な依存」と「相対的な依存」を区別しました。
「絶対的依存」というのはどういうことかというと、客観的にみると人に依存していなければらないにもかかわらず、
自分は相手に依存しているという自覚がない状態をいいます。
依存されている人が、「おまえは俺に依存しているんだぞ」、「私がいなくなったら、おまえは困るんだぞ」、「私が見捨てたら、あなたはおしまいだ」などと言わないで、
最後まで依存させてあげる。
依存している本人も、依存しているという自覚もない。だから見捨てられる不安もない。相手に気遣いもしないし、感謝もない。
こういうのを絶対的依存の関係といいます。
もしかすると、実は古いタイプの夫婦関係では、夫に妻がそうなるのを当たり前だと思い、
妻も夫をこういう状態にずっと置いてあげている人が多かったかもしれません。
夫はいつも自分が一番偉いつもりでいて、自分が妻に頼っていることに全く気付いていない。
しかし実は、妻が全部そうさせてあげているのです。
これは古いタイプのお父さんですが、社長さんかなんかにも、なにもかも側近にやってもらって、本当はみんなに依存しているのに、
自分にはパワーがあって力があるかのように錯覚していて、人望を失うと、たちまち裸の王様のようになってしまう人があります。
このように絶対的依存の状態にいる人というのは、救い難い人たちです。
つまり、全部自分の力でやっていると思っていますから、逆に本当の意味で甘えるということがうまくできない。
人に助けを求めるということができないわけです。
中高年の年代の困った夫、困ったお父さんには、こういう人が多い。
ところがこれに対して、相対的依存の関係というのはどういうことかというと、
これは、本人も相手に頼っていることに気づいている関係です。
誰かに頼らなくては一人ではやっていけない、そういう自分のある種の無力さ、helplessな気持ちというものにどこかで気づいていて、
そして誰かに頼ることで、なんとかやっていこうとする。
これを相対的依存といいます。
ですからこの場合、依存する相手がいなくなったりすると非常に心細くなります。
「もしお母さんがいなくなったら、僕一人でどうしたらいいのだろう」と不安になります。
これを、「分離不安」といいます。
分離不安が起こってくるのは、だいたい生後1歳半〜3歳くらいですが、これはだんだんと自分はお母さんに依存している、
頼っているということがわかってくるために起こります。
そしてこの分離不安の段階を通って、幼稚園、小学校くらいになると、お母さんがそばにいなくても、自分一人でやっていけるという、
いわば子どもなりの自立ができるようになっていくのです。
ウィニコットはこのような相対的依存の意識をもつことができるようになることが、
人間の心の発達ではとても重要なテーマであると言っています。
この意識があって分離不安があるから、頼れることのありがたみもわかり、感謝の気持ちも抱けるようになるのです。
子どもの親離れを妨げる親
ところが、最近の親の中では、子どもを絶対君主ではないけれど、絶対的依存の状態のまま、
それ以上おとなにさせないような親がいます。
つまり、みんなお母さんがやってあげてしまって、挙げ句の果てに「あなたね、私がいなかったら何もできないんじゃないの」ということになる。
けれども本当は、天照大神ではないけれど、お母さんが天の岩戸に入ってしまって、子どもが一人でウロウロして、
「ママァ、助けてちょうだい」というところまで困って、「お母さん、ごめんなさい」、「私はお母さんの言うことはなんでも聞きます。だから見捨てないでちょうだい」
と、こういう不安をある程度子どもに与えてこそ、初めて子どもは現実というものを知るし、自分というものに目覚めるのです。
そしてそこから、本当の意味での自立と依存というテーマが出てくるのです。
ところが、そういうふうにさせては可哀そう、と母親がいつも一歩先、一歩先を面倒みてやって、
子どもが「ウー」というと「アー」、「ツー」というと「カー」とやってしまう。
こういう風に子どもを傷づけまい、傷つけまいとして、面倒をみたり世話をしてあげてしまうお母さんが、けっこういます。
これでは、子どもはいつになっても「自分がやれているのだ」という絶対的依存の段階から、相対的依存の段階に入れない。
そして、もしもそこで挫折したり上手くいかないことがあると、「ちゃんとやってくれないお母さんが悪い」となる。
絶対君主だから、「お母さん、何をやっているのだ、グズグズして」と威張ってしまうという依存が発生します。
こういう依存のあり方を、「支配的依存」とも言います。
つまり、王様が家来を脅しながら使って、本当は依存しているのだけれども威張っている、というような依存です。
このような子どもがけっこう多いです。
自分の思う通りにならないのは周りが悪いからだ。
お母さんがこうだったから、お父さんがこうだったから自分はいけなかったのだ、と。
こういうメンタリティにずっと入り込んでいくと、やはりこれは不登校予備軍になるし、いろんな問題がそこから発生します。
依存ができない子どもたち
相対的な依存を自覚できることが、本当の自立の始まりなのですが、依存しっぱなしで、どうしてもこの局面を抜け出すことができない。
しかし、いつもいつも未然にお母さんが補ってあげられるというのは、せいぜい中学へ入る前くらいまでです。
そこで、お母さんの応援が役に立たなくなってきたお子さんはどうなるかというと、無気力状態になったり、学校へ行けなくなったり、
引き篭ったりすることになってしまいます。
というのは、こういう子どもは、自分に力がなくても上手に頼るということができないからです。
頼るという方法が身についていないし、自分の無力感を実感できないのです。
こういうパーソナリティ構造をもった子どもや若者が、アメリカでも英国でも日本でも、非常に増えています。
自分にあまりにも全能感が強くて、依存ができない。
全能感は非常に観念的なもので、しまいには空想的になってしまっているのに、しかも人に頼れないのです。
こういう傾向が、最近の子どもには大なり小なり生じています。
つまり、今の時代、社会の風潮そのものが非常に全知全能的なのです。
何でもコンピューターやテクノロジーによって思う通りになります。
寒くなればボタン一つで暖房は入るし、暑くなればまたボタン一つで冷房が入る。
それが当たり前になって、全てが自分の思う通りに、人に頼らなくてもできるような時代になっているため、
全知全能感をもったまま生きていこうという、そういうメンタリティが発達してきています。
ですから、不登校などの問題に子どもが悩まないですむようにするためには、
まずは絶対的な依存の状態を十分に満足する、つまり「僕は強いのだ」、「一人でやれるのだ」という自信をつけてあげる。
それから今度は次に、「お母さんがいないと心細いなあ」という不安をだんだんと体験する。
さらに、幼稚園から小学校の頃に、それを乗り越えてなんとか一人でやっていける、独り立ちができるようになる。
そういった心の発達と親離れと自立のプロセスが順調に進んでいくことが、とても大切だと思われます。
引用文献
小此木啓吾(2016) 精神分析のおはなし 創元こころの文庫