「ホーム」の二面性(つづき)

 

 

家族というのは、

 

① 親密な人間関係であり、

 

② その関係のあり方がその人の心の中の構成要素(対象関係)に決定的な影響を及ぼすもので、

 

③ その経済的、社会的環境がその人の不安や娯楽のパターンを提供する枠組みになるという意味で、重要です。

 

けれどもいつまでも「家庭」をよりどころとすることは、少しばかり注意が必要で、問題が生じます。

 

というのも、心の病を引き起こす多くの人々の背景に、実はこの家庭があるからです。

 

親密だからこそ問題が起きやすい、家庭というのはそういう場なのです。

 

 

 

夏目漱石の高等遊民が登場する諸作品や、志賀直哉が父親との葛藤を描いた「和解」のことを思い描いていただければと思います。

 

日本の近代文学は、家族からいかに自立して個人であるかということを主題としてきました。

 

それは家族との葛藤、そこからの脱出が主題だったのです。

 

 

 

臨床的にも、家族との葛藤はあらゆる場面で顕在化します。

 

たとえば、不登校や家庭内暴力などは、子どもが自分の家庭がより所だというときに起こりやすいことです。

 

不登校は、家から学校、つまり内から社会への行動範囲の拡張の途上で失敗してしまった場合です。

 

家庭内暴力では、子どもはより家のなかにあって、内弁慶をひどくしたように、外の世界だけでなく、

 

家の中の人たちに対しても敏感で神経質となり、自分が攻撃されるのではないかと怯えています。

 

だから家の人たちにまで暴力を振るうのです。

 

日本の家庭内暴力は、子どもが親にというパターンが圧倒的に多かったのですが、

 

最近では夫が妻や子どもにというアメリカ的なパターンも増えています。

 

いずれにしても、彼らは自分にとっての家庭にこだわっています。

 

そこから離れられないために、あるいは外の世界に上手く適応できないために、しだいに家の中に追い詰められていったのです。

 

明治期の文学のほとんどに、家制度のなかで葛藤する個人が描かれています。

 

家庭からの個人の分離と自立とは、近代における大きな主題になってきたものなのです。

 

つまり近代における心の病の起源は、家庭と個人との関係のなかにあります。

 

精神分析では、心の原型にある家族の問題を「エディプス・コンプレックス」と呼びました。

 

この原型やさまざまな変遷を遂げてきましたが、近代において家族と個人の間の悲喜劇は重要な心の主題でした。

 

 

 

非常に逆説的なことですが、家にこだわるということは、心のなかに安定した「家(うち)」を持っていないということです。

 

逆に言えば、自立にこだわる人も同じです。

 

多くの家庭で家族から離れていくプロセスは、自然で無意識的なものですが、

 

家の人に不満をぶつけたり、家族から離れられないで不安になったり、あるいは家族を目の敵にするといったことは、

 

もともとの家族がその個人の心のなかに居場所を持たない、つまり不安定なためです。

 

父親コンプレックス、母親コンプレックス、兄弟(劣等)コンプレックスなど、

 

人の心のなかに形成される複雑な綾を「コンプレックス」と呼びますが、その起源はたいてい家族にあります。

 

家にこだわる人は安定した家を求めていて、自立にこだわる人は不安定な家から離れたいと思っているのです。

 

どちらも極端ですし、心は家族から自由ではない。

 

そこに束縛されている限り、心の居場所を求めて得られない状態なのです。

 

思春期の子どもは自分の部屋を欲しがりますが、それは家族とのコンプレックスが複雑になる時期だからです。

 

 

 

その意味で思春期は、心のなかの家族が作り出しているコンプレックスと自分が自分であるというアイデンティティとが衝突して、

 

対峙したり、対話したり、妥協したりする時期なのです。

 

自分であるというアイデンティティの問題とは、人間が自己意識をもつからこそ存在するのだといえます。

 

自分に目を向けてみると、内側への意識と外側への意識が微妙に異なるのも、そのためです。

 

思春期になると第二次性徴期という身体の変化が起きます。

 

もともと身体のなかへの感覚は不鮮明で、どちらかというと漠然としていますが、それに加えて思春期には自分の体の一部、

 

あるいは内部に特有の関心が向かざるを得ない。

 

そのため自分自身が誰であるかという問題と自分の体の問題とが不可分なのです。

 

思春期に発症しやすい、たとえば摂食障害のような病気がそうですが、それはお腹や頭といった身体の一部に、

 

自分が閉じ込められてしまうような、そのような症状を伴うものです。

 

 

 

思春期には自分の心のなかの家族と、自分の身体の変化が混乱しやすい。

 

家のなかで彼らが荒れたり暴れたりするのは、そのためです。

 

フロイトが述べているように、人間の自己には、そうした内部外部からの侵入を不安として感じる信号装置が付属しています。

 

けれども、自己が一種の閉所になってしまうなら、それは家族の構成要素や場所の配置に制約を受けて動けなくなっている状態です。

 

そしてそれにこだわり続ける限り、自分の生活が狭窄化してしまいます。

 

心理学的な視点からすれば、それらは数少ないより所に左右されているにすぎませんし、そこにこだわることは、

 

私たちの認識の幅を非常にせまくするものなのです。

 

 

 

私たちが自分のまとまりである同一性を育てるなかで依拠しているものは、物や肩書きの集合体です。

 

家族、家、共同体、町、友人、出身大学、学歴、会社、社会的地位、お金、経済状況などなど、

 

それらは多かれ少なかれなくてはならないもです。

 

でもそれにこだわることは、視野狭窄か、あるいはフェティシズムであり、生活の狭窄化を起こしやすいのです。

 

お金、学歴、自分の地位など、そうしたものにこだわるために起きる悲喜劇は、多くの人が体験してきているはずです。

 

 

 

 

 

引用文献

 

妙木浩之(2010) 「初回面接入門」 岩崎学術出版社