精神分析から見れば、人は多かれ少なかれ心を病んでいて、
しばしば衝動的だったり、しばしばあまりに頑固であったり、うそつきであったりします。
だから、たいていの人は子供であることが多い。
それが現実です。
もちろん聖人君子のような人はいますが、その人の心のなかでも、きっと多かれ少なかれ同じことは起きていて、
程度の差でしかありません。
宗教や精神分析の修行を積んで、晩年に明鏡止水の心境に到達する人はいます。
でも、彼らが大人かと聞かれれば、どちらかというと老人だと言えるでしょう。
老人は若者よりも衝動や社会規範に縛られていないので、ある程度、そういった心境に到達しやすいのです。
では、大人になる条件とは何でしょうか。
一般に思いつくのは、あまり衝動的ではない、社会的にそれなりに評価を受けている人でしょう。
ただ、一見、外から大人だと見える人は、かなり無理をして過剰に社会適応している場合も少なくありません。
実際、社会的には二十歳になれば「お酒が飲める」「タバコが吸える」「風俗店にいってもつかまらない」など、
どうも最初に思いつくのは「悪い」ことばかりです。
だから、大人しくしている人が適応しているように見えるのは、それだけ我慢して周りに合わせていることが多いのです。
無理をして我慢をすれば、その人の胃のなかが炎症を起こしたり、不眠や身体的不調を起こしたりします。
その理由は、社会が大人に要求していることが「すべき」「いけない」といったことが多いために、
あまりに過剰に社会に合わせてばかりいて自分の衝動を抑えていると、体のほうが失調状態になってしまうからです。
最近では、自律神経を媒介にして、精神的な影響で免疫不全すら起きることがわかっています。
社会に適応しているだけでは、その人が心から大人かどうかは判断できないのです。
当然ですが、現代において大人になるということは、
自分が人とどうやって生活していくかということだけではなく、
私たちが生き物として、どうしてこの地球に生み出され、社会的な存在としてどうして発展してきたのか、
ということを含めて、疑問を持つことが大切でしょう。
歴史全体から見れば、西洋、そして今の先進諸国の経済的発展はグローバルなトレンドを作り出し、
それが逆に新たな問題、例えば環境問題、格差問題を引き起こしています。
こうした一見大きな問題には、私たちの心のあり方が引き起こしている、
あるいはそれを巻き込んでいる面があるはずです。
それは人間の心の暗部、フロイトが「文明の居心地悪さ」、「不気味なもの」と呼んだものです。
豊かさを享受している、あるいはお金をたくさんもらっていい生活をしている人が、
そうではなくて生まれながらの環境から来る貧困に喘いでいる子どもたちがいることを無視することは、
大人としておかしいことだと思います。
私たちは広い意味での生態系の一員です。
精神分析が大人になる条件について考えるのに適しているかどうか、心理学の専門家の間では、
おそらく異論のあるところでしょう。
フロイト以後の100年間、どちらかといえば、精神分析は子ども、乳幼児の発達、
あるいは神経症的だけでなくパーソナリティや精神病を病んでいる人たちの分析に力を注いできました。
よく言われることですが、フロイトは大人の心に「子ども」がいることを発見した、
そして次の世代のメラニー・クラインは「乳児」がいることを発見したのです。
私たちは生まれおちて、それ以後、常に刺激を受けて、さまざまな刺激を受けながら育っています。
大人になるまでに相当ぼろぼろなのだ、精神分析はそう考えているのです。
その意味で、立派な大人になる条件よりも、病気や子どものままでいる人たちのことをよく知っていると言えます。
けれども、だからこそ、大人になることがいかに難しいか、
健康と呼ばれることがいかに貴重なことかをよく知っていると言えます。
もちろん、社会の中での権利として、大人になるとできることは多くなります。
「選挙権がある」、「立候補ができる」という法制度上大切なことも含まれています。
これらには責任という、やや窮屈な、権利か義務かわからない厄介な事柄が含まれていますが、
「好きな人と結婚ができる」という衝動的にも満足のいくように見える権利も含まれていますし、
「お酒を飲める」といった、ちょっと悪いこともできるようになります。
でも、結婚できるようになれば相手への責任が増えますし、お酒を飲めるようになれば、
アルコール依存粗油とまでにはいかないにしても、羽目を外して人に迷惑をかけない程度の
自分のコントロールが必要になります。
人は、情動に対して、それを制御する必要性がいつも増えるようです。
引用文献