精神分析に視点から見れば、人間の生活は「うそ」に満ちています。
あるいは、あらゆる意識的な認知、知覚は、無意識の視点に立てば、どこかに「うそ」があるという主題を立てています。
ですから、そんなことはない、自分は純粋だという人には、精神分析は必要ないでしょう。
でも、心の病を持っていたり、自分のなかでこうしたいけど、こうすべき、でもああしたいし、こうもしたい、といった葛藤や、
自分と他人の狭間で、こうありたい自分とこうあるべき自分の間のギャップに悩んだり、自分に対してせよ、他人に対してにせよ、
何かうそをついている、そういう欺瞞、その不条理に満ちた人生を生きていて、
それを少しでもよくしたい、あるいは軽くしたい、軽くできないかもしれないけど抱えるキャパシティを増やしたい、
などと思っている人ならば、精神分析は意味があります。
自分がもっている衝動、そして前意識、無意識で行っている防衛を分析する価値があります。
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おそらく自我は、身体的、衝動的に「したい」ことの延長線上に、社会的、道徳的に「すべき」ことと出会うときに生み出されるもので、
フロイトの言い方によれば、現実検討という、社会と出会って衝動を調整する場です。
そして心は、この二つの圧力のなかで、安定を求めて適応を模索しているのです。
そのなかで、自我は葛藤に出会いやすいのです。
少し考えればいろいろな場面でわかると思いますが、例えば今、お腹がすいて「死にそうだ」(比喩です)というのに、仕事をしないといけない。
そうでないと明日までに仕事が終わらないし、ますます明日からの残業が増えてしまう。
お腹いっぱいにしたいからといってご飯を食べたら眠くなる。
そして、そもそもそんなにお金の余裕がないから、仕事をやり終えなければご飯を食べてはいけない状況だったりしたら、
ますますご飯なんか食べて仕事の効率を下げられません。
このような些細な状況は、結構日常的にあります。
そういうときに、自我は解決のない葛藤に直面します。みなさんなら、どうするでしょうか?
①とにかくご飯が先だ
…これで衝動は満足できますが、代わりに残業が増えてしまうという現実に出会います。
でも、現実を見ない、つまり現実逃避や否認をすれば、とりあえず衝動は満足できますし、衝動的な人柄なら、
あまり本人も気にならないし、周囲も見逃してくれる、そう万能的に思い込むことができます。
でも仕事が減って、結果としてご飯は食べられなくなるでしょう。
②ご飯は我慢し続け、仕事をする
…衝動を抑圧することで空腹を埋める、あるいは忘れることができます。
もちろん、空腹は体のサインですが、ある程度続けていれば、体の方がそれに調整し始めます。
ただ、この心身状態が過剰になって、カロリー不足の状態を長期的に続けていけば、自律神経のほうが調子を崩して心身症や慢性的な病気になります。
体が仕事の無理にストップをかけるということになります。
見方によっては、抑圧が体に負けてしまうということでしょう。
③ご飯を食べなくてもとか、仕事をしなくてもとか、自分のなかであれこれ考えてみたり、思っていることと反対のことをしてみたりすることで、紛らわせようとする。
…衝動とその抑圧というダイレクトな方法ではなく、何度も同じことに戻って悩んでみたり、突然行動をしてみたり、頭の中で反芻してみたりします。
こうした気を紛らわせる方法は、大人になれば結構多くの人がやっています。
言い方によっては、上手く自分を誤魔化す方法です。
④ご飯を食べて、少しだけ仕事をして、そしてご飯を食べて、といった妥協案を考え、そして実行する
…こうした妥協は自我の意識的な努力かもしれません。
もう少し体のメカニズム、つまり眠くなるメカニズムや、仕事の効率を上げるようなやり方を考えると、
少しだけ合理的に衝動と仕事とを両立させることができるかもしれないからです。
これも、大人になると多くの人が行っている妥協形成策だと思います。
③との違いは、自分をだましだましというより、妥協を意識的に抱えている、あるいは解決を模索しているところです。
こうした選択肢以外に、食物を幻覚するといった精神病的な解決もあり得るでしょうが、これはかなり病的です。
自分のことを振り返ればわかることだと思いますが、自我が主体的に行える範囲は④だけで、その選択範囲はとても狭いものです。
意識して操作している部分は、ごくわずかなのです。
その意味で、自我は衝動の皮膜だとフロイトはいいましたが、作業記憶をはじめとして、人間の心理機能のほとんどは、意識的なものではないのです。
①から③の意識をしないで行われる解決方法は、事後的にやっていたという程度の意識しかできません。
フロイトは自我の無意識的な領域を、注意を向ければ気づくという意味で、「前意識」と呼びました。
私たちに気がつくのは全意識的なことで、前意識が意識していても、もし状況が衝動、あるいは現実と妥協していかないと、
慢性的な病気になったり、神経症的になったりすることがあるということは、先の例からもわかります。
それだけ人間の衝動が現実と出会う、社会と出会うのは難しいとも言えますし、社会生活を営むためには、心のなかで無意識的に閉じ込めていかないといけない衝動が多いともいえます。
人って、結構つらいのです。
これらのメカニズムを整理するために、フロイトは自我の意識と前意識の場は、エス(一人称でもなく二人称でもなく、「それ」という意味)
の無意識の領域と対立すると述べています。
そして意識と前意識の特徴を二次過程、無意識を一次過程に分けました。
文字通り、一次過程が先で、二次過程は発達の後期に完成するものです。
二次過程は現実原則によって動き、私たちが社会の集団に合わせて、先の例で言えば、仕事をしていくためにどうするかといった思慮、
あるいは行動全般にあらわしています。
それに対して、一次過程は快感原則で動き、衝動を満足させる方向に、欲求不満を解消させるほうに、人を動機づけます。
これらがしばしば対立する状況は、人が生活していくうえでは至るところにあります。
そして、それに対する対応のうち、①がどちらかといえば一次過程、④が二次過程です。
その間で、人は意識的、無意識的に行動を選択しているのです。
この章で取り扱う主題は、精神分析の専門用語では、「防衛」と呼ばれます。
それは、①から④のあいだで精神装置全体が行っている対立解消、妥協形成の総称です。
個体のなかで、それぞれの圧力、あるいは、エネルギーのバランスを取るためのメカニズムといえます。
そして④以外、あるいはコミュニケーションのなかで私たちが直面するのは、自己への自己への欺瞞、他者への「うそ」、社会の中での噂といった事象です。
自分をだます、他人をだます、それらの「うそ」は私たちの生活には不可避なのです。
大人としては、できれば、この「うそ」や噂について考えられるようになっていきたいと思います。
多かれ少なかれ、これらの事象と私たちは付き合っていかなければいけません。
ちなみに、選択肢のなかの④は、精神分析が目指しているものです。
精神分析に視点から見れば、人間の生活は「うそ」に満ちています。
あるいは、あらゆる意識的な認知、知覚は、無意識の視点に立てば、どこかに「うそ」があるという主題を立てています。
ですから、そんなことはない、自分は純粋だ、とか、人間は根本的に誠実だとすぐに反論する人には、精神分析は必要ないでしょう。
でも、心の病を持っていたり、自分のなかでこうしたいけど、こうすべき、でもああしたいし、こうもしたい、といった葛藤や、
自分と他人の狭間で、こうありたい自分とこうあるべき自分の間のギャップに悩んだり、自分に対してせよ、他人に対してにせよ、
何かうそをついている、そういう欺瞞、その不条理に満ちた人生を生きていて、
それを少しでもよくしたい、あるいは軽くしたい、軽くできないかもしれないけど抱えるキャパシティを増やしたい、
などと思っている人ならば、精神分析は意味があります。
自分がもっている衝動、そして前意識、無意識で行っている防衛を分析する価値があります。
引用文献